阿賀野上ノ城の事件簿

昔は名探偵でした。

桃源Q考察

【桃源Q】

  南極ゴジラが送る奇想天外ラブストーリー、『桃源Q』。その第1話、#1の舞台は「ゲームの世界」であった。中華風の世界観で描かれた世界観の中で薬屋を営む「町人A」というキャラクターは、ゲームプレイヤーが操る主人公である「ジャッキー・リー」に恋をしてしまう。町人Aはジャッキー・リーを「Q」と呼び、コントローラーを無視して迫るところで#1は終了している。そして続く#2、#3、#4、と一見するとそれぞれ独立したようなラブストーリーが展開されていく。但し#1以外、キャラクターの名前が「赤星」と「Q」に固定され、「二人が最終的に結ばれない」という結末まで一貫していた。

  その後、#7まで「赤星がQを好きになるが結ばれない」という形態を一貫させて桃源Qの配信は続いた。転機が訪れたのは実質上の最終回とされる#8である。登場人物である二人の男女は時空警察であり、なんとこれまでの#2〜#7のラブストーリーが全て悲恋で終わったのは彼らによる妨害工作のせいだったことが明かされる。

  二人は「赤星とQという人物が恋に落ちると世界が崩壊する」という世界のバグを修正するため様々な世界線の赤星とQを引き裂き続けた。しかし、物語終盤になり、全ての赤星とQを引き裂いたはずの2人は、自分たち自身もまた「赤星とQ」であったということに気づいてしまう。

  以上が#8の大枠のあらすじである。さてこの「桃源Q」を#8まで見届けた時、私にはいくつか疑問が浮かんだ。なぜ、#7まで続けていた「赤星」と「Q」という名前の一貫性を#8と#1では捨てていたのか。そしてなぜ#8の二人は自分たちが「赤星」と「Q」であることを思い出したのか。

 

【申し遅れたが】

  物語を謎を追うことが名探偵の使命、そしてこの物語で私が果たすことだ。申し遅れたが私は「阿賀野上ノ城」という者である。もちろんペンネームで本名ではない。一応「名探偵」ってことになってるが現実では辺ぴな田舎で塾講師なんぞをしているただの一般人だ。

  私はこのアカウントで「桃源Q」という物語に対する考察を日々垂れ流してきた。南極ゴジラの劇団員から推薦を受けて「考察パーソン」に指名されていたからである。正直、楽な仕事ではなかった。「名探偵」などという設定を自分で作ったところで自分の頭が考察を思いつくほど良くなるわけでもない。桃源Qは各所に考察できるポイントがあるものの、それらは巧妙に隠されておりなかなか見つけるのは困難であったし、事実ほとんど見つけられた気がしない。しかしここまでまあなんとか計20ほどの考察を投稿してきた。桃源Qは各話50回ずつはみたし、このアカウントでの投稿の8割は私のものである。

  ここまで私が忙しい社会人人生の合間をぬって続けてこれたのは、ひとえにこの仕事の報酬のためである。私はこの考察の仕事をボランティアで引き受けた訳ではない。考察を引き受ける代わりに南極ゴジラがむかし抽選でプレゼントしていた「サコッシュ」を手にすること、それがこの契約の条件であった。

  最初、この考察の誘いが来た時に私は断りを入れた。社会人というか新米塾講師は忙しいのだ。日々の教材研究の合間をぬって映像を見、考えをまとめ、時には調べ物をし、考察にして投稿するという作業を断続的に行うことはやや負担が大きいように感じた。

  しかし、その見返りとしてあの南極ゴジラサコッシュが貰えるのだとしたらやる価値はあるのかもしれないと感じて「サコッシュが期限内に貰えるのだとしたら引き受けたいが、難しいと思うので今回はお断りさせてほしい」と返した。サコッシュは限定品だったし、南ゴジの考察班なんて引き受けたがる人間はごまんといるだろうからまさかこんな条件をつける人間をわざわざとりたがるまいと思ったらまさかの「サコッシュと引き替えに頼む」という返事が返ってきた。何を考えているのかはわからないが、もらえるからにはやらせて貰おう。かくして、サコッシュを見返りとして私の考察班入りが決まったのである。さて、そのサコッシュであるが一体何がそんなに魅力的なのか。一つは仕事の即戦力になる点だ。ちょうど考察のオファーが来た日に上司から「夏期講習までにマーカーやタイマーなど授業で使えるポーチを用意しておけ」と言われた。サコッシュなどはこれにピッタリである。買う手間が省ける。さらに、あのサコッシュはユガミノーマル氏の顔面が張り付けられているというなんともキテレツな作りになっている。授業で使うものは生徒にも見られる。キテレツなデザインは生徒にもウケるだろうし、私自身としても好みのデザインだ。

   このような魅力あるサコッシュに出会える、というその一心でこれまで考察に励んできた。時には正解し、時には間違え、そして大抵は見当違いな深読みをしていた。

 そして桃源Qはいよいよ明日、真の最終回を迎える。ここまでやってきた考察のまとめとして、最期に名探偵らしく「桃源Q」の真相を披露したい。ただし、この推理は間違っている。ほぼ間違いなく間違えている。つまり今から行われるのはこじつけに屁理屈を重ねた「とんでも考察」である。だが、同時に物語をできるだけ正確に読み込むことを意識した結果の結論でもある。であるからして、今から記すことは 『桃源Q』という作品がもつ矛盾を指摘するものである可能性がある。そしてその矛盾を解決するために私がこねくり回した解釈なのだ。

これからそんな私、阿賀野上ノ城の最後のとんでも考察と、そこから導き出されるもう一つの物語について記していきたい。さて先程の謎に話を戻そう。

 

阿賀野上ノ城の推理】

  今から行う考察の土台となるのは「#8において赤星とQは世界のバグを修正しようと奔走していたが、二人の行動はまったくもって逆効果、むしろバグを拡張させた」という解釈である。

  二人はQと赤星が恋に落ちると世界にバグが発生し、最終的にパラレルワールドが崩壊することを防ぐために妨害工作を行っていた。

  この「恋=バグ」という構図は南極ゴジラが公式で何度も提示してきたものであり、#8はその体現であると言えるだろう。

 しかし、そもそも「恋」とは何なのだろうか。実はこの「恋」についても南極ゴジラは公式で定義づけを行っている。

https://m.youtube.com/watch?v=jfFqi-TrdOY

  この公式動画によると、「恋=お互いを思う気持ちの均衡がとれていない状態」と示されている。これを先ほどの等式と合わせると「バグ=お互いを思う気持ちの均衡がとれていない状態」ということになってしまう。

  この公式が示した等式に則ると、#8の二人が行った行動はむしろ「恋」を増幅させていると言わざるを得ない。妨害工作が行われていない#1を除くすべての回において、Qと赤星はほとんど初めから恋人として成立するような関係性であった。

  しかしそれが#8の二人の介入によって変わってしまい、結果として二人の間の好意の不均衡を生み出してしまっている

#2ではQの方から「赤星大好き」というセリフが語られているほどの関係性だったのにも関わらずTGCのオファーにより二人はひきさかれてしまう。

#3の二人はカエルの消失がなければ二人が恋仲になっていたことはほぼ確実だろう。

#4の二人は元から夫婦である。そこから赤星がパラレルワールドに向かってしまったことにより赤星のQが好きだという感情が大幅に強化されてしまった。

#5の赤星がラブセンサーを発明した動機は「もう会えない人にもう一度会いたいから」という強烈な恋情である。

#6の二人は初めから気持ちのズレはあったものの、それが表面化されたのは宇宙30年行などと言う極端な決定のせいだろう。

さて、ここまでが定義に従った結果の間違ったとんでも考察である。ここまでが前提で、ここからはこの発想を土台とした「桃源Q」という作品の再解釈を試みたい。

さて、まず「二人が引き裂かれる=バグ」を前提として桃源Q全体を見た時、そのバグとは正しい解釈と同様に「パラレルワールドの境目を溶かす」となる。赤星とQが結ばれなかった場合、ふたりの中の1部が世界線移動を行い、別の生物もしくは無生物に入り込む。

 つまり、「恋心」というものが魂のように存在し、その正体が「赤星」であり「Q」なのである。とある世界線で赤星とQが引き裂かれる。すると「恋=バグ」が起こる。結ばれるために「赤星」、そして「Q」の恋心の魂は身体を抜け出し、黄泉の国を経由して別の世界線に移動する。新たな世界線で魂としての「赤星」と「Q」はその世界線での同一人物、つまり「赤星」「Q」の器に入り込み、パラレルワールドを巡ってその世界線での「Q」に恋をしてバグを修正しようとする。これが私の導いた真相である。

  ただし、「パラレルワールドの上の同一人物に入り込む」と先程説明したがこれは因果関係が逆なのではないかと考えている。同一人物に入り込むのではなく、入り込んだ人物が同一人物となるのである。この点は抑えておきたい。

  この設定であれば、作品における謎でいくつか説明がつけられるものが出てくる。一つは記憶のリフレインである。本作では他の回の赤星もしくはQの記憶がリフレインされたり、「セミ」「カエル」など特定の単語が言葉が好んで使われるような描写がちょくちょくと登場している。これは、バグによって他の赤星またはQの記憶が入り込んでいくからであると考えれば辻褄が合う。

  この一連の流れの中で、恋愛感情の魂としての「赤星」と「Q」が引き継いだ以前の記憶、それこそがリフレインの正体なのである。だから#8の赤星はあれだけ急なリフレインを起こしたのである。少なくとも6回引き裂かれた「赤星」の無念があの時のメキシコマンには入り込んでいたのだから。

  ここからさらに考えを進めていくと、先程示した「なぜ#8と#1の登場人物の名前は赤星とQではないのか」という謎の解決が可能である。

まず、問いを修正する。「なぜ#8と#1の登場人物の名前は赤星とQではないのか」ではなく、「なぜ#2〜#7の人物は名前が赤星とQで固定されていたのか」に置き換えよう。

 そもそもの話であるが違う世界線での同一人物の名前が全て同じであることはありえないのではないか。赤星とQは日本人とは限らないし、人間じゃなくとも構わないのだから(理由は後述する)。だが、恋愛感情としての魂が無限に存在するパラレルワールドを移動する時、できるだけ元の世界と似た要素をもつ世界に移動する傾向があるのだとしたら、今回の#2〜#7で全ての登場人物の名前が同じであることの説明が着く。#8にて「これも名前に囚われた使命か」というセリフがあるように、つまり世界線を移動した魂ができるだけ元の世界線と似た魂を選ぶ時に要素となるのが「名前」なのである。だから#2〜#7の人物の名前が「赤星」と「Q」で固定されたのは、パラレルワールド上の二人の名前が同じ「赤星」と「Q」である同じ世界線が選ばれたからと考えることができる。さて、しかし無限に続くパラレルワールドといっても、「赤星」と「Q」という名前の二人が交わる世界線など数える程しかないだろうし、それ以外の要素で世界線を移動する可能性は否定できない。そこから、#8と#1の登場人物の名前が「赤星」と「Q」ではない理由が示される。今までの理論を土台とすると、#8はこのように再解釈されうる。

  「赤星とQが結ばれる=バグ」であると勘違いした時空警察の二人は世界線を移動し、6つもの「赤星」と「Q」を引き裂き、バグを拡張される。「名前」に囚われて世界線を移動していた魂は6回もの妨害を受けてその原因である「ラブリ」と「メキシコマン」に入り込み、これ以上の「バグ」の拡張を止めた。

  それではその後に#8の世界はどうなったのか。#1の結末に則れば「崩壊」したものとなるが、ではそもそも「崩壊」とはなんなのであろうか

#6によると、アース585である「ゲーム」はバグが見つかったためにメーカーによって回収されたらしい。回収されたということは、その後は恐らくその世界線を保存したゲームは解体されていると予想できる。#8における「崩壊」とはつまりこのゲームの解体を指すのではないか。とするならば、このアース585とされる世界線はその全てが崩壊した訳ではなくなる。#6において、とある美術教師がこのゲームを一つ隠し持っているらしく、少なくともその世界線だけは生き残っていると考えられるだろう。となれば、「Qと赤星が結ばれる」はイコールで「崩壊」ではなくなる。これは推測であるが、#1の物語はその崩壊を免れたゲーム機の中の物語ではないのか。#8の世界線で結ばれた二人の魂はその場に残るのかもしれないし、もしかしたらまた新たな世界線に移ってまた新たな「恋」をするのかもしれない。そして世界を跨ぐときには、#8の世界線と同じく、もはや「赤星」と「Q」という名前は必然性がなくなる。#1のキャラクター名は「ジャッキー・リー」と「町人A」である。しっかりと別の名前がある。しかし、#1を見ればわかるように2人は明らかに「赤星」と「Q」の記憶を持っている。だから、名前に必然性はないのだ。違う世界の同じ名前という共通項は世界線を移動する時の優先事項であって必須事項ではない。そうでなければ、名前が異なる#1の二人が赤星とQの記憶を持つ説明がつかない。

#8の二人は名前を消されており、元々の名前が「赤星」と「Q」というようにも考えられるが、この解釈であればもはやその辺はどちらでも構わなくなる。

 

【桃源Qが持つ普遍性と、そこから生まれるもう一つの物語】

 そして、「桃源Q」という物語が恋愛感情という魂の移動を描いたものであるとするからこそ、南極ゴジラが公式で「桃源Q#99プロジェクト」を募集することができる。赤星とQの魂が乗り移り続ける限り、物語は無限に量産されうるのだから、いくつのストーリーが紡がれようとこの理論は潰れない。また、プロジェクトでは、赤星とQは人間ですらなくても構わないとされている。ここから、二人の魂が乗り移る先は無生物でも構わないというふうに解釈ができる。どんなものに入り込もうとも、「赤星」の魂は「Q」の魂に恋をするのである。

  何より大切なのは、桃源Qという物語が名前にとらわれない「恋愛」というものを描いたのだとすれば、私たち一人一人が「赤星」であり「Q」であるとの可能性が目の前に広がることとなる点である。もし、焦がれるような、息がしにくくなって、食欲がなくなって、夜も眠れない。走り出したいようなそんな存在がいるのなら、私自身が「赤星」であるという可能性は捨てきれない。桃源Qとは、そのような普遍性を持った物語であるのである。

 そこまで考えた時に私は気づいた。それでは、私自身にはそのような焦がれるような相手がいるのかと。

 

いる。へんぴなこじつけを繰り返してきた私にはそんな存在がいる。それこそがあのサコッシュだ。 

  この2ヶ月、サコッシュの為に頑張ってきた。起きて、仕事をして、帰って、教材研究をして、そしてやっと桃源Qを見て、考えて、寝る。サコッシュという目標がなければとっくにこんなことは無意味だと放り投げていただろう。むしろ、サコッシュという存在が私を苦しめているのではないのかと考えたこともある。

  しかし、人間とは不思議なもので想いをこめればこめれるほど愛情とは深くなっていくものである。いつしか私は、「あのサコッシュでなければダメだ」と考えるようになった。この考察の末に、サコッシュに出会えるのならば、出会えるまで続けよう。そうでなければ、今の私の生活はなんの意味もなくなってしまう。あの『ドン・キホーテ』でドン・キホーテがまだ会えぬドルネシアを想って何度でも復活してきたように、『神様のボート』で「あの人」がいない草子との生活が一層「あの人」への想いを強くしてきたように、会えないからこそ焦がれる、想いをより一層強くするような「恋」が存在することを、私は知っている。もはや、換えが効くものではないのだ。私とサコッシュの間にはストーリーがあり、そのストーリーは「私」とあの「サコッシュ」でなければならない必然性を付与する。それはよく恋愛物で言われる「君でないとダメなんだ」と言うセリフのように。思えば、1年前に「インスタント桃源郷」の感想を綴った時から、私とサコッシュの恋は始まっていたのかもしれない

 だがしかし、こんな恋とも執着とも言えない物語が成就する可能性はゼロに近い。私はサコッシュを待ち続けた。そして、私が指定した日程にサコッシュが届けられることはなかった。私が考察を投稿する引き換えに夏期講習までにサコッシュが届けられるという約束は破られた。未だ制作すらされていないそうだ。

 それでも、私はサコッシュを待ち続ける。私は今もマーカーやタイマーなどの授業道具を何にも入れず持ち歩いている。私とサコッシュが出会う瞬間はこの世界線で存在するのだろうか。これは単なる南極ゴジラの怠惰の仕業なのか?それともどこかの時空から私を監視した存在による妨害工作なのか?そもそも、私は本当に「赤星」なのか?私の導きだした結論では、恋心という魂は名前に引き寄せられてその依り代を決定する傾向がある。私の苗字は「阿賀野」。「あかほし」と「あがの」という二つの名前を、魂は「似ている」と捉えるのだろうか。 サコッシュは別名を「qバッグ」というそうだ。

 

【結末】

  私は#8のメキシコマンとラブリの本名が「赤星」と「Q」じゃなければいいのに、と思っている。私の解釈であれば、例え二人の元の名前が「赤星」と「Q」でなくとも物語は成立する。私は生まれた時の名前で運命が決まっているなんて、信じたくない。私の名前は私が決める。例え本名ではなくても、私は「阿賀野上ノ城」だ。「私」の中にこれまで数々の難事件を解決してきた「阿賀野上ノ城」は確かに存在するのだ。

 そして、私の恋心は私が決める。どうやら公式によると「桃源Q」はハッピーエンドで終わるそうだ。恋焦がれ、呼吸ができなくなるような存在がいるのなら、それはきっと私にとっての「Q」だと信じる。そう信じることが私を「赤星」にさせる。私の導いた結末では、「桃源Q」はもはや名前に囚われる物語ではない。そして、二人の物語が「桃源Q」である限り、その結末はハッピーエンドを迎えるはずだ。

 それとも、私はやはり間違えているのか。運命はやはり「赤星」と「Q」という名前に囚われるのだろうか。私は「赤星」という名前ではない。その理由で私の恋が「桃源Q」ではないと言うならば、私はありったけのこじつけととんでも考察でまた証明してみせよう。「俺が赤星で、君がQなんだ」と。(阿賀野上ノ城)

 

 

 

 


#桃源Q考察

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こじつけて ひっくり返す 超考察

君と私の 運命すらも