阿賀野上ノ城の事件簿

昔は名探偵でした。

球体を愛した少年

弟の病気は、言うなれば物語恐怖症だった。

現実とフィクション、それぞれの死の違いが分からない。厄介なことに彼にとってはお話が途切れることも死の一つなのだ。

「スーパーは苦手。あそこは残酷すぎる」

チョコレートのパッケージに素っ気なく書かれた男の子、彼にとってはそれすらも一人の人間と見えてしまう。男の子はそのパッケージに閉じ込められ、それ以上の主張を禁じられている、哀れな、救うべき少年。

 

感受性が高いで済ませてしまえそうな話だが、実生活にまで影響がでているのでそういうわけにもいかない。高校2年生の17歳の時、春の文化祭だった。ついに彼は学校で倒れた。 文芸部誌を握りしめながら。


高校生が書いた、高校生のお話だった。球体をこの上なく愛し、収集する趣味を持つ主人公はありとあらゆる球体を自分の部屋に溜め込んだ。地球儀、ビー玉、スーパーボール、ライムの実。ある日、彼は同級生の女子生徒に恋し、友人の助けを借りて無事縁談を成功させる。しかし、有頂天で彼女を自室に引き入れた時、彼のコレクションが彼女の目に晒された。彼の独特な趣味は彼女に理解されることはなく、嫌悪感のままにその場で別れを告げられる。かくしてある少年の初恋は幕を閉じた。その彼女の名字が「円谷」だったというのがちょっとしたオチだ。

 

本当にたまたまだったのだ。そこらの高校生が書いた、大したことのない短編小説。しかしそれは弟の精神を破綻させるとどめとなってしまった。それから6年間、弟はその少年の話を書き続けた。彼の家族関係、クラスメイト、進学先、あらゆる設定が好きなように付け加えられていった。彼にとっては少年に対する人工呼吸のようなものなのだ。書き続けなければ、死んでしまう。


文化を消費する時代だ。フィクションの人間を完璧に避けて生活することは難しい。

弟は倒れて以来、外に出ることがなくなった。高校は中退し、部屋でひたすらお話を書き続けている。球体を愛する少年のお話だ。


父はあろうことか、そんな彼の文章を彼の病状とともに世界に発信していた。

「せっかく書いたんだから色んな人に読んでもらった方がいいだろ」

どうしてこんな無神経な男からあの弟が生まれたのか理解に苦しいが、なんにせよ弟の文章は注目を集め、遂に出版された。物語恐怖症が書いたお話を買う物好きが世の中には想像以上にいるようで、僅かではあるが印税が生まれている。もちろん自立できるほどの額ではないが、めったに外出しないので、今の彼にかかるお金は食費ぐらいのものと考えるとむしろ家計としては黒字なのかもしれない。


そしてある日、弟はまた倒れた。何も書けなくなったのだ。想像力の限界だった。書けるものは全て書ききった。彼の書いた原稿は20000枚を超えていた。3日後の夕方だった。むくりと起きて一心不乱に自分の書いた原稿を読みはじめたと思うと、急に部屋を飛び出してしまった。

「待って」

慌てて弟を追いかけた。弟の足取りは気の毒なほど弱々しかった。追いつくことは容易だったが、弟を止めようという気になれなかった。闇雲ではあるが、何か捜し物があるように被りを振りながら弟は走り続けた。もう弟も二十三だ。いつまでもこのままではいけない。でも、それでは彼を止めてそれから何をすればいいのか、そもそも止めることが正解なのか、私には何も分からなかった。5分は走り続けただろうか。河原の土手にたどり着いた。

 

 



 

 

 

弟はやっと止まった。そして、空に向かって手を伸ばした。弟は泣いていた。伸ばした手の先には、涙で滲んだように歪に揺れる夕日があった。

弟はその日から、物語を書かなくなった。