阿賀野上ノ城の事件簿

昔は名探偵でした。

なぜか頭から離れなかった歌詞シリーズ

 

 

 

 

 

 

誰かが今日こぼした溜息は氷のつぶてになって降

傘も持たず 今 君がいるなら踊るように 並んで歩こう(TOMOO『Super Ball』)

 


誰かが髪を切っていつか別れを知って 太陽の光は

ふりそそぐ

ありとあらゆる種類の言葉を知って 何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ

(小沢健二『ローラースケート・パーク』)

 


運命の河流れ いま抗え 気付かず生き惚けた

過去をみな紡ぎ縄に変えて 出口に繋ぐまで

(星野源『Cube』)

 


Lovely!いつか魔法解けて

Bye bye!すべて忘れても

Praying!だけど祈りのように

なぜだか僕を安心させるさ

(fhana『愛のシュプリーム!』)

 

球体を愛した少年

弟の病気は、言うなれば物語恐怖症だった。

現実とフィクション、それぞれの死の違いが分からない。厄介なことに彼にとってはお話が途切れることも死の一つなのだ。

「スーパーは苦手。あそこは残酷すぎる」

チョコレートのパッケージに素っ気なく書かれた男の子、彼にとってはそれすらも一人の人間と見えてしまう。男の子はそのパッケージに閉じ込められ、それ以上の主張を禁じられている、哀れな、救うべき少年。

 

感受性が高いで済ませてしまえそうな話だが、実生活にまで影響がでているのでそういうわけにもいかない。高校2年生の17歳の時、春の文化祭だった。ついに彼は学校で倒れた。 文芸部誌を握りしめながら。


高校生が書いた、高校生のお話だった。球体をこの上なく愛し、収集する趣味を持つ主人公はありとあらゆる球体を自分の部屋に溜め込んだ。地球儀、ビー玉、スーパーボール、ライムの実。ある日、彼は同級生の女子生徒に恋し、友人の助けを借りて無事縁談を成功させる。しかし、有頂天で彼女を自室に引き入れた時、彼のコレクションが彼女の目に晒された。彼の独特な趣味は彼女に理解されることはなく、嫌悪感のままにその場で別れを告げられる。かくしてある少年の初恋は幕を閉じた。その彼女の名字が「円谷」だったというのがちょっとしたオチだ。

 

本当にたまたまだったのだ。そこらの高校生が書いた、大したことのない短編小説。しかしそれは弟の精神を破綻させるとどめとなってしまった。それから6年間、弟はその少年の話を書き続けた。彼の家族関係、クラスメイト、進学先、あらゆる設定が好きなように付け加えられていった。彼にとっては少年に対する人工呼吸のようなものなのだ。書き続けなければ、死んでしまう。


文化を消費する時代だ。フィクションの人間を完璧に避けて生活することは難しい。

弟は倒れて以来、外に出ることがなくなった。高校は中退し、部屋でひたすらお話を書き続けている。球体を愛する少年のお話だ。


父はあろうことか、そんな彼の文章を彼の病状とともに世界に発信していた。

「せっかく書いたんだから色んな人に読んでもらった方がいいだろ」

どうしてこんな無神経な男からあの弟が生まれたのか理解に苦しいが、なんにせよ弟の文章は注目を集め、遂に出版された。物語恐怖症が書いたお話を買う物好きが世の中には想像以上にいるようで、僅かではあるが印税が生まれている。もちろん自立できるほどの額ではないが、めったに外出しないので、今の彼にかかるお金は食費ぐらいのものと考えるとむしろ家計としては黒字なのかもしれない。


そしてある日、弟はまた倒れた。何も書けなくなったのだ。想像力の限界だった。書けるものは全て書ききった。彼の書いた原稿は20000枚を超えていた。3日後の夕方だった。むくりと起きて一心不乱に自分の書いた原稿を読みはじめたと思うと、急に部屋を飛び出してしまった。

「待って」

慌てて弟を追いかけた。弟の足取りは気の毒なほど弱々しかった。追いつくことは容易だったが、弟を止めようという気になれなかった。闇雲ではあるが、何か捜し物があるように被りを振りながら弟は走り続けた。もう弟も二十三だ。いつまでもこのままではいけない。でも、それでは彼を止めてそれから何をすればいいのか、そもそも止めることが正解なのか、私には何も分からなかった。5分は走り続けただろうか。河原の土手にたどり着いた。

 

 



 

 

 

弟はやっと止まった。そして、空に向かって手を伸ばした。弟は泣いていた。伸ばした手の先には、涙で滲んだように歪に揺れる夕日があった。

弟はその日から、物語を書かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読書記録

 読んだ本の記録です。

 

矛盾の解消やら生成やらを、単語で行わなければならないという決まりはない。そんな事態が文法的に解消されたり生成されたりする言葉というのはないものだろうか(円城塔『道化師の蝶』)

 

彼の妻が、彼について歌い続ける。彼には身に覚えのない、彼の実績について低い声で歌い続ける。自分はそんなことをしたのだろうと彼は思い、実際そんなことをしたと思い出す、彼の名を織り込んだ歌を今はまだ歌う。いずれ彼が姿を消せば、彼女は歌から名前を消去し、ずっと昔の人物についての歌としてそれを歌い続けることになるだろう。(円城塔『松ノ枝の記』)

 

でも多分重要なのは、物質の流れが輪を描くこと。描かれた輪が整合性の名の下に、私の思考を紡ぎ出すと信じることが出来るように、この世はなぜかできている。くるくる回る因果の輪が、そうして回ることにより、自分は回っているのだというメッセージを刻む。これはペンですとしか書けないペンみたいに。(円城塔『これはペンです』)

 

ありがとう。後藤さん。

今あなたの頭の中で恥じらう、素っ裸の後藤さん。その姿をあなたが時々思い出してくれたなら、それ以上の僥倖はない。

おやすみ。後藤さん。でも僕たちにはまだ、そんな巫山戯た光景をどうすれば真面目に考えることができるのか、本当に全然、わからないんだよ(円城塔『後藤さんのこと』)

 

何かを信じてしまう代償として生まれるものは、そいつは最早僕のことなど、知らないだろうが、それでもなにかの種類の、僕みたいな僕の形だ。(円城塔『パラダイス行』)

 

「悪人を気取ると楽だよー? 何しても『自分は悪人だから』で済ませられるから」(成田良悟Fate strangeFAKE①』)

 

「貨幣とは雑種に成長と堕落を同時にもたらした最高の発明品(まじない)だ。我も嫌いではない。それ程の逸品でありながら、最大の使い道が『浪費』とはなかなかに滑稽な在り方よ」(成田良悟Fate strangeFAKE②』)

 

「人に再現できる魔術はいいの。だけど、人の限界を定義した魔法なんてものは無い方がいい。私はそう信じてるし、その壁に立ち向かう愚かさこそが人間の本質だって信じてるの」(成田良悟『FatestrangeFAKE③』)

 

「俺は綺麗ごと以外も好きだがな。……綺麗ごとを言って、それを最後までやってのける主役ってのは、新聞でも戯曲でもよく売れやがるんだ、これが」(成田良悟『FatestrangeFAKE④』)

 

トルネドの定義は以下の通り

「無限回のレフラー球覗き込みにおいて、距離無限小まで無限回接近することの知られた、無数のレフラー球系列よりなる構造物」(円城塔boy’s surface 』)

 

人間の最大の武器は、習慣と信頼だ。

(伊坂幸太郎ゴールデンスランバー』)

 

選択肢は無限なようで、実は一つしかない。その選択肢は、カスタマイズすること。カスタマイズの地獄。

(小沢健二『魔法的モノローグ』)

 

「その通り、酔っているのです。しかも、酔えば永久に醒めないような飲み物を飲んで、このようにわしは酔っているのです」

(ベディエ『トリスタン・イズー物語』)

 

友達を作ると、人間強度が下がるから

(西尾維新傷物語』)

 

誰だって、見られるよりは、見たいのだ

(安部公房箱男』)

 

人間は、誰だって、死人に借りがあるんですよ(安部公房『制服』)

 

作者になりたいっていうのは、要するに、人形使いになって、自分を人形どもから区別したいという、エゴイズムにすぎないんだ。女の化粧と、本質的には、なんの変わりもありゃしない

(安部公房砂の女』)

 

こんな具合に理性が役立たなくなり、自由がなくなると、必然と偶然のけじめがまるでなくなって、時間はただ壁のようにぼくの行手を塞ぐだけです。

(安部公房『S カルマ氏の犯罪』)

 

「願掛け」は人の祈りに対する集中力を持続させることに役立ち、祈りの時間を延長させる。

(舞城王太郎好き好き大好き超愛してる』)

 

「ここが好き」「こういうところが好き」とかは言えるけど「ここがあるから好き」「こういうところがあるから好き」というふうには言えないの

(舞城王太郎阿修羅ガール』)

 

蛇は穴に入り、人はやがて死ぬる。そしてぼくは、日々考え続ける。甘っちょろく、気長に、考えつづける。

(川上弘美『どこから行っても遠い町』)

 

「人は、自分より先に死んで悲しいに決まってるペットを、それでも飼うんですよ」

(舞城王太郎ディスコ探偵水曜日(上)』)

 

「大人の男は、謝らない」

僕は声を低くして言った

「魂の価値が、下がるから」

(西尾維新化物語(上)』)

 

力があるやつって根本的に得だよな。好き勝手出来るもん

(西尾維新化物語(下)』)

 

「どうやって生きるかは自分で決められるけど、どうやって死ぬかは、決められないみたい。ちょっと、くやしいわ」

(川上弘美『水声』)

 

「本郷は生真面目で、注意深く、責任感が強く馬鹿みたいに優しく、脆い。私の親友です。けど、こんな言葉で説明して何がわかりますか」

(米澤穂信愚者のエンドロール』)

 

エネルギー消費の緩やかな一年を送れますように

(米澤穂信『あきましておめでとう』)

 

回避は好きだし省略は大好きだ。しかし先延ばしは好きではない。厄介事を見て見ぬふりをしても、いずれやらねばならない処理がより厄介になるだけだ……。

(米澤穂信ふたりの距離の概算』)

 

「あんた、謙遜もいいけど自覚もしなよ」

(米澤穂信『わたしたちの伝説の一冊』)

 

「見返りのある頼み事の場合、相手を信用してはいけない」

(米澤穂信クドリャフカの順番』)

 

それに不幸というやつ、こいつは結婚みたいでね。当人は自分で選んだと思っているが、いつの間にか選ばれたのが自分というわけだ。なにしろそれは現実だから、どうにもならん。

(カミュカリギュラ』)

 

「僕は例外というものを認めない。例外は法則を紊すものだ」

(コナン・ドイル『四つの署名』)

 

「天才とは苦痛を無限にしのぶ能力があるものだというが、こいつはきわめて拙劣な定義だ。こいつはむしろ探偵に下すべき定義だよ」

(コナン・ドイル『緋色の研究』)

 

物事をあきらめるのに、9月ほどうってつけの月もない。

(江國香織『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』)

 

差別する人には私から見ると二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ

(村田沙耶香コンビニ人間』)

 

「あなたは蝶を捕まえてなどいないのですよ。蝶に勝手についてきただけだ」

(円城塔『道化師の蝶』)

 

全体が正気のものであると信じ込む種類の狂気を、正気に考える方法が存在するとする狂人は常に存在する。

(円城塔Goldberg Invariant』」 )

 

皆やはり有罪であって、何らかの罰を受けるべきであると、僕は思う。想像もできないような酷いことが自分たちのそばで起こりうるのだと、想像すらしていなかったという罪状で。

(舞城王太郎世界は密室でできている。』)

 

ああ、ただの勉強家では駄目なのだ。頭で組み立てた理想などは端から矛盾せざるをえない、この生々しい現実世界の混沌に直面するや、とたん浮き足立つような輩では使えないのだ。

(佐藤賢一『パリの蜂起』)

 

ああ、そうだ。父に復讐したかったのではない。認めあい、わかりあいたかったのだ。そうすることで禍々しい怪物から、愛されるべき人間に戻りたかったのだ

(佐藤賢一バスティーユの陥落』)

 

己が信じる言葉のままを叫びながら、それゆえにロベスピエールの心には支えというものがない。他人に挫かれる痛みは免れないとしても、自らを恥じねばならない苦さはない。そのことを認めれば、デムーランの自問は切先を鋭くするばかりだった。

もしや僕は痛みから逃げているのか

(佐藤賢一『聖者の戦い』)

 

またどこかで出会うことがあるのじゃないかと考えることはなにか笑みを誘う。そんなことがあったって別に構わないだろう。なんといっても、時間はもう粉々に砕けてしまって、順番も一貫性も滅茶苦茶なのだ。

(円城塔『self reference engine〜Bullet〜』)

 

だから、無邪気に信じていた。自分の気持ちがあの頃からずっと変わらずにこの胸の中に今もあるんだと。それは、間違ってはいないと思う。だけど、美緒自身があの頃のままだったわけじゃない。

(鴨志田一just because!』)

 

文章の自動生成とは、読む者と読まれる者の間に浮かぶ人間の姿を描きだすことに他なりません。

(円城塔『AUTOMATICA』)

 

変な文脈読んだつもりになってアホなところに余計な顔突っ込むなよ探偵

(舞城王太郎ディスコ探偵水曜日(上)』)

 

「意思は結果を創るんですよ。みんなそれを知ってます。だから結果を得たとき、どんな人間でも全能感を味わうんですよ。頑張ればできる。やればなんとかなるって言葉の本当の意味はそれですよ」

(舞城王太郎ディスコ探偵水曜日(中)』)

 

踊り出せよディスコティック。急いでな。恐怖に立ちすくむような贅沢なんて、お前にはもう許されてないんだ。

(舞城王太郎ディスコ探偵水曜日(下)』)

 

砂糖でできた弾丸では子供は世界と戦えない。あたしの魂は、それを知っている。

(桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』)

 

「なんで俺がルンババ12かというとー! 俺が十二の時に涼ちゃんが死んだせいでー!なんとなく俺、十二歳のまんまの部分があるんやー!」

(舞城王太郎世界は密室でできている。』)

 

「人生を論じるなど、ただの暇つぶしだ」

(森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』)

 

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」

(森見登美彦四畳半神話大系』)

 

自分のやったことを憶い出すぐらいなら、何も知らずに心を奪われていたほうがましだ。

(シェイクスピアマクベス』)

 

「人間には物語が必要なのです。血沸き、肉躍る物語がね。大体、そんな理屈は大抵の者には理解ができない。理解できないものは存在しない。手で触れ、見ることのできるもの以外はね。物語はわたしたちのおろかさから生まれ、痴愚を肯定し続ける」

(伊藤計劃×円城塔屍者の帝国』)

 

「お姉様は何でもそうな風に、理解と詩でアルフォンヌを飾っておしまいになる。詩で理解する。あんまり神聖なものや、あんまり汚らしいものを理解するただ一つのやり方」

(三島由紀夫『サド公爵夫人』)

 

「別れた女のことは嘘でも良く言うものよ」

(畑野智美『国道沿いのファミレス』)

 

「愛されようとするには、同情さえしたらいいのだ。ところが僕は決して同情はしない」

(サン・テグジュペリ『夜間飛行』)

 

「趣味と言えば言えなくもないね。一般的に頭のまともな人はそういうのを好意とか愛情とかいう名前で呼ぶけれど、君が趣味って呼びたいならそう呼べばいい」

(村上春樹ノルウェイの森(上)』)

 

彼女がもたらした心の震えがいったい何であったのかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。

(村上春樹ノルウェイの森(下)』)

 

「あなたが勇敢に前のほうばかり見ているのも、元をただせば、まだ本当の人生の姿があなたの若い眼から匿されているので、怖いものなしなんだからじゃないかしら」

(チェーホフ桜の園』)

 

多くの人々の場合人々の注意や関心を惹きつけるのは、静止した顔立ちの善し悪しよりは、むしろ表情の動き方の自然さや優雅さなのだ。

(村上春樹1Q84』)

 

「理想的な推理家は、たったひとつの事実をあらゆる面から見ただけで、それにいたる一連の出来事を一から十まで推理することができるし、そこから生ずる全ての結果も導き出すことができる」

(コナン・ドイル『五つのオレンジの種』)

 

「重要なのは、事情通や新聞記者がくっつけたごてごての余分な部分を取り除き、揺るぎない絶対的な事実のみを抜き出すことだ」

(コナン・ドイルシルヴァー・ブレイズ』)

 

「誰だって傷つくしかないのにさ、傷つくことに抵抗するんだよな、女って」

(江國香織『東京タワー』)


「でも、会えなくなるって思ったら、会いたくなった。いなくならないでほしい」

(畑野智美『海の見える街』)


就活がつらいものだと言われる理由は、ふたつあるように思う。ひとつはもちろん、試験に落ち続けること。単純に、誰かから拒絶される体験を何度も繰り返すというは、つらい。もうひとつは、そんなにたいしたものではない自分を、たいしたもののように話し続けなくてはならないことだ。

(朝井リョウ『何者』)


合理性より優しさが大事な時もある。

(米澤穂信『満願』)


わたしは自分に問いかける。あんたは自分を守りたかった。それなら、リンゴは一個でよかったはずなのでは?

(湊かなえ『白ゆき姫殺人事件』)


イツキと暮らしはじめてわかったことがひとつある。だれかと一緒に暮らしていると泣き虫になる。

(有川浩『植物図鑑』)


伸びた髪と爪、そして汚れていくからだが、僕の生きている証だ。

(湊かなえ『告白』)


騎士道物語の要諦は、ただただ、その記述における模倣の仕方にあるのであって、その模倣が忠実であればあるほど、書きあがった作品が優れたものとなるのさ

(セルバンテスドン・キホーテ前編(一)』)


「サンチョよ、下賎な連中に恩恵をほどこすは大海に水を注ぐようなもの、とはよく言うたものじゃのう.......」

(セルバンテスドン・キホーテ前編(二)』)

 

子供を育てるなんてこと、不真面目にでもやらなきゃ、たまらない苦行だわよ

(川上弘美『水声』)

 

「なんでそんなにぐずぐずして、一人前にならなかったんだ。母さんは死んでしまった。喜びの日を味わうこともなく。友だちはロシアで途方に暮れている。3年前から黄ばんで紙くず同然。この私は、ほら、見てのとおりだ。お前にも目があるだろう」

(カフカ『判決』)


涼子さんは最後までにこやかな笑顔をたもちつづけた。出ていく日には、かつおのたたきと菜の花のおひたし、小さなステーキを拍子木に切って熱いごはんに乗せたもの、それにねぎみそという、涼子さんの大好きな料理ばかりをつくって食卓にならべ(渉の好きなもの、というのでないのがよかった。そういう感傷的な感じは、まいる)食べおわると、片付けはせずに、じゃあね、と手をふって出ていった

(川上弘美『どこから行っても遠い町』)


「すべてを真実だと思う必要はないのです

ただそれを必然だと思えばよいのです」

「陰気くさい考えですね」

とKは言って、「嘘が世界の法にされるってわけだ」

(カフカ『審判』)


幸福になるための、完璧な方法がひとつだけある。

それは、自己のなかにある確固たるものを信じ、しかもそれを磨くための努力をしないことである。

(頭木弘樹『絶望名人カフカの人生論』)

 

「雪って、寂しくないから好きよ」などとマサヨさんは言う。無防備なもの言いをする人だ。

(川上弘美『古道具 中野商店』)


「我慢するとは、心の中に、悪いもんが溜まるんや。ずっと後になって、しっぺ返しがくるんや。じっと我慢してたからて、正しいのとちゃう。私は耐えた、せやから許される。そんな簡単な話ちゃうんや。世の中は――この世は」

(澤村伊智『ぼぎわんが、来る』)

 

「たまには欠点の方も教えてもらえるとありがたいね」

文彦が言うと、可笑しそうに理恵はわらった。そして、

「いま教えてあげたじゃないの」

と、いうのだった。

(江國香織「寝室」)


夢の中で、僕は彼女を求めて歩く。そうしていることに気づくことが夢だと気づくことになる。

(舞城王太郎好き好き大好き超愛してる』)


あなたは何かを意図してみる。意図していると知らないままに兎に角意図する。意図に従い行為が生じ、それからあなたは、自分が意図したことを脳の活動としてはっきりと知る。それだけだ。

(円城塔『良い夜を持っている』)

 

あなたのいるその場所では、バックアップはクロックの進行と密接な関係を持っています。

(円城塔「さかしま」)


「カッコ悪い姿のままあがくことができないあんたの本当の姿は、誰にだって伝わってるよ。そんな人、どの会社だってほしいと思うわけないじゃん」

(朝井リョウ『何者』)


ホントの願い事なんて、ネットの世界なんかに絶対に書いちゃ駄目なのだ。

舞城王太郎阿修羅ガール』」

 

「でも、すぎてしまえはずっと一緒にいた相手をいちばん愛していたと思ってしまうのね、きっと」

(江國香織『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』)


真実は、時に世界の偽りを叩き潰す。

だが、『偽りがそこに存在していた』という『真実』を消すことはできない。

たとえ、聖杯の力を借りたとしても

(成田良悟『FatestrangeFAKE①』)


「我を敬うのは構わん。当然のことだからな。だが、我を盲信はするな? 目を輝かせたなら、その眼をもってして、己の道を見極める事だ」

(成田良悟『FatestrangeFAKE②』)


「当時の歌や詩をあまり舐めない方がいいぜ。毎日寝物語で聞かせてたら、それこそ呪いか祝福みてえに人の魂を改造してもおかしかねぇ」

(成田良悟『FatestrangeFAKE③』)


「お前らが最後まであいつを信じ抜きゃ、たかだか本物にすぎねぇ伝説の一つや二つ、いくらでま覆してやれるだろうよ」

(成田良悟『FatestrangeFAKE④』)


「真実とかいう煮ても焼いても食えねぇ不味い肉があったとしても、歴史って下味を付けて何年も寝かせた後に、ちょっとした嘘の調味料を振りかけりゃ、少しは食えるもんになるってわけだ」

(成田良悟『FatestrangeFAKE⑤』)


自分が弱い理由は、単純だ。

——私はそもそも·····強くなろうとしなかった。強くなりたくなかった·····。

——逃げる方が、ずっとずっと楽だったから

(成田良悟『FatestrangeFAKE⑥』)


「あらゆる畜生の中でもっとも頭の良い生き方をしているのは猫に違いないが、アイツらが小狡いのも魚を喰うせいに違いないぞ」

(森見登美彦『新釈 山月記』)


僕はここにいると、本たちがみな平等で、自在につながりあっているのを感じることが出来る。その本たちがつながりあって作り出す海こそが、一冊の大きな本だ。

(森見登美彦「深海魚たち」)


その場にいない第三者への悪口というものは、人々をかたく結びつけるものである

(森見登美彦四畳半神話大系』)


どんなことを為すにしても、誇りを持たずに行われる行為ほど愚劣なものはない。ひるがえって言えば、誇りさえ確保することができればどんな無意味な行為も崇高なものとなり得る。

(森見登美彦太陽の塔』)

 

俺の理性がそう主張する。しかし人間は理性のみによって生きる存在にあらず。長門はそれを「ノイズ」と言うかもしれない

(谷川流涼宮ハルヒの憂鬱』)


ライフラインをあちこちに分散させておくのは野良のたしなみですよ。

(有川浩旅猫リポート』)


濃い味と薄味では、薄味の方が失敗したときのリカバリーが利く、ということも学習した。

(有川浩『植物図鑑』)


おい森田、むしろ、人間の最大の武器は、笑えることではないか?

(伊坂幸太郎ゴールデンスランバー』)

 

他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。

(太宰治『斜陽』)


人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。

(太宰治ヴィヨンの妻」)

 

人間への不信は、必ずしも宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。

(太宰治人間失格』)


いかなる芸術家も芸術それ自体では満足できないのに、私は気づいた。他人に認めてほしいと思うのが自然な感情ではないか。

(アガサ・クリスティそして誰もいなくなった』)


「例によって、ヘイスティングス、あなたの精神は美しく、疑うことを知らない。何年経っても、あなたのそういうところは変わらないんですね! あなたは事実を見て、同時にその解決法を口にしながら、自分がそうしていることに気づかないんです!」

(アガサ・クリスティABC殺人事件』)

 

「ええ、そうです。9時半にアクロイド氏はすでに死んでいたのです。」

(アガサ・クリスティアクロイド殺し』)


「ウサギをつかまえたいときは、穴にイタチを入れるんです。そうすれば、なかのウサギが逃げだしてくる。わたしがやったのは、そういうことです」

(アガサ・クリスティオリエント急行殺人事件』)

 

「テレビも一種の宗教だ」

(伊坂幸太郎ラッシュライフ』)

 

「お馬鹿さんのアダム、誓いは偽りの始まりということを知らないの。私に嘘をつかせるようにしむけたのはあなたよ」

(安部公房「魔法のチョーク」)

 

「漂流者が、飢えや乾きで倒れるのは、生理的な欠乏そのものよりも、むしろその欠乏にたいする恐怖のせいだという」

(安部公房砂の女』)

 

かしこい人が言ったとさ

大きなナベを用意しろ

死人の季節がやってくる

幽霊集めてジャムつくれ

(安部公房『幽霊はここにいる』)


贋物であることに免疫になってしまったぼくには、もう魚の夢をみる資格さえないのかもしれない。箱男は、何度繰返して夢から覚めても、けっきょく箱男のままでいるしかないらしいのだ

(安部公房箱男』)

 

「よく星が瞬くって言うでしょ。あれは空気が汚れてるからなんですよ。澄みわたった空だと、瞬かないんです」

(重松清『流星ワゴン』)


「俺の考えじゃ、薬をやるから人間が駄目になるんじゃない。人間が駄目だから中毒になるんだ」

(安部公房『けものたちは故郷をめざす』)


「優しい人は二種類いると僕は思っている。家族に大切にされ、友達や恋人にも愛され、人に優しくされるのも優しくするのも当然と思っている人。痛い目に遭わされ、辛い思いをして、痛みをわかっているから人に優しくしようと思っている人」

(畑野智美『国道沿いのファミレス』)

 

まんがや音楽ではなくて、この子が世界を広げてくれるんだという予感がした。

(畑野智美『海の見える街』)

 

「彼女がいる人にはコーヒー一杯だって、おごってもらっちゃいけないの」

(畑野智美『家と庭』)


視覚は遠い灯を感ずるだけだった。足を踏む感覚も視覚を離れて、如何にも不確だった。只頭だけが勝手に動く。それが一層そういう気分に自分を誘って行った。

(志賀直哉「城の崎にて」)


民兵隊は単なる人気者を、真実の指導者に変えてくれる。力の裏づけを与えてくれるからである。なお仲間であるとは思いながら、もう人々は容易なことでは逆らえない。それが仮に非合法な武力出会ったとしても、だ。

――そうなって、はじめて言葉も意味をなす

(佐藤賢一『革命のライオン』)


「ええ、我々は人民でしかありません。しかしながら、我々は自らに自信がないからこそ、弱く見えるのではないかと恐れているからこそ、目的以上のこともしてしまうのです。乱暴で、非常識な耳打ちに、取り憑かれることもあります。騒擾と混乱と反逆の渦中においては、温和な理性も、静かな知性も、我々の導き手たりえません」

(佐藤賢一『パリの蜂起』)


なんとなれば、ルイ16世は頑固だ。

思いのほかに頑固で、ほとんど強情なようにも感じられる昨今だった。そもそもが鈍重で、決然としたところがない人物だったが、のらりくらりと決断から逃げながら、それ自体が王一流の政治力なのかと、おかしな感心をさせられるほどである

(佐藤賢一バスティーユの陥落』)


自由主義だの、民主主義だの、優勢を占めつつある政治信条に本気で傾倒する気はない。が、開明派を気取ることで、かかる標語を叫ぶことは造作もない。ああ、そういう手法で天下を取ろうというのが、私の考えというわけなのだよ

(佐藤賢一『聖者の戦い』)


芝居という夜空の花火のような絵空事にすぎぬものが、大の男大ぜい、こうも共通の狂気へみちびいてゆくのは、何故だろうか。

(三島由紀夫椿説弓張月』)


「人間は間違いを犯す。国民であろうと、議会であろうと、王と同じに間違いを犯す可能性がある。我を通すために暴力にいわせることだって、短絡的に多くの兵隊を集めてしまうことだってあるのです」

(佐藤賢一『議会の迷走』)


「ごらんなさい。私の病気を知ってから、もうあなたは苦しんではいらっしゃらないわ。いくら隠しても、目に喜びが、目に光がよみがえっていふ。残酷なむつみ合い、それが癩者の愛なのですわ。もうあなたを愛することなどできません」

(三島由紀夫『癩王のテラス』)


「愛するとは彼女と同じ不完全なレベルになること」というひとつの自己犠牲神話を崩すためには、ひとりの女性とのささやかな生活を犠牲にて、全世界を救う選択をしたヒーローという、これまた地球人好みの大きな自己犠牲神話が必要だったというわけだ。

(井辻朱美『とっても奇蹟な日常』)


「でもお母さま、悲しい気持ちの人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて? 幸福な人には景色なんか要らないんです」

(三島由紀夫鹿鳴館』)


「私といえば変わったことはなにもなく、平和な日々でお茶漬けばかり食べている。秋は、一年じゅうでいちばんおいしいお茶漬けのおいしい季節だと思う」

(江國香織落下する夕方』)


水を抱く気持ちっていうのはセックスのない淋しさじゃなく、それをお互いにコンプレックスにして気を使いあっていることの窮屈。

(江國香織きらきらひかる』)


ボウモアをロックで」

(江國香織ケイトウの赤、やなぎの緑」)


小さな食卓をととのえながら、私の孤独は私だけのものだ、と思った。

(江國香織「ねぎを刻む」)


「つまづく石でもあれば私はそこでころびたい」

(江國香織『ホリー・ガーデン』)


この後私は大学に行き、友達ができ、恋人もできた。ドライブにも度々でかけた。もう、世界はじゃこじゃこのビスケットのようではなかった。

(江國香織「じゃこじゃこのビスケット」)

 

一度出会ったら、人は人を失わない。

例えばあのひとと一緒にいることはできなくても、あのひとがここにいたらと想像することはできる

(江國香織『神様のボート』)


旅が、好きなのだろうと思う。移動するというただそれだけのこと、様々な土地の空気を吸うというただそれだけのことが、私たちにはたぶんとても大切なのだ。

(江國香織『がらくた』)


「おれたち盲は目明きの、慰みものだ。先生がいくら立派なお盲さまになり、また、大仕事をやってのけても、目明きどもは《ほう、盲の身でありながらよくやった》とほめてくれるだけですよ。いつも「盲」の一字がついてまわる。そこへ行くと金は別だ。金さえあれば向うから揉み手して寄ってくる」

(井上ひさし『藪原検校』)

 

俺は、夕子さんの夢だけが、本物だと思った。

(朝井リョウ「水曜日の南階段はきれい」)


「さっきから目まいがしましてね、この大和座がぐるぐる回っているような気がして仕方がないんですよ」

(井上ひさし『もとの黙阿弥』)


「マーサがあのピンボケのイジドアにやったクモ―あれもきっと模造だったんだ。だが、そんなことはどうでもいい。電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも」

(フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか』)

 

「たかが夢? 単なる夢? (きっとなって)人生は夢、夢こそ人生、その人生を誰が「たかが」「単なる……」と言えるか? そして仏法の成り立ちもまた夢と同じことなのだ」

(井上ひさし道元の冒険』)

 

科学も宗教も労働も芸術もみんな大切なもの。けれどもそれらを、それぞれが手分けして受け持つのではなんにもならない。一人がこの四者を、自分という小宇宙のなかで競い合わせることが重要だ。

(井上ひさし『イーハトーボの劇列車』)


「われわれは、まるで生き物に対するように、その本に質問をします。事実、その本は生きているんです。キリスト教の聖書のように。多くの本が、実際に生きているんです。これは比喩的な意味じゃありません。言霊がそれを生かしているんです」

(フィリップ・K・ディック『高い塔の男』)


あなたの神様にお祈りして石ころのようなものにしてもらいなさい。それこそ神様のとっておきの幸福、唯一の本当の幸福よ。

(カミュ『誤解』)

 

健康な人は誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ。

(カミュ『異邦人』)


「誤認こそが我々だ。誤解こそが我々の世界だ。私たちが触れられるのは多種多様な真実であって、たったひとつの真実じゃない」

(三田誠『ロード・エルメロイII世の事件簿1』)


「みつからなくてもいいのよ。探したって事実が、大事なの」

(原田マハカフーを待ちわびて』)


「いかなる身分のものであれ、拙者の逆鱗に触れたくなければ、あの美しきマルセーラのあとを追うことはお控えなされ」

(セルバンテスドン・キホーテ前編(一)』)


幼い頃――小学生になるまで、わたしも両親に「こわいにおい」を感じていた。今ならわかる。それはお酒のにおいだった。あの人たちは酔っていたのだ。

(澤村伊智『ぼきわんが、来る』)


「いかに悲惨な運命の中にあっても、そばでともに嘆き悲しんでくれるものがおれば、それはそれでいくらかの慰めになる」

セルバンテスドン・キホーテ前編(二)』」

 

「怖い話が伝わり広がること、それ自体なんだ。それが恐怖を引き起こす」

(澤村伊智『ずうのめ人形』)

 

「あれが宗旨替えをする気になったのは、あんた方の宗教がわしたちのそれより優れていると悟ったからだなどと思ったら大間違いだぞ。あれはただ、あんた方の国へ行けばわたしたちの国でよりふしだらなことがもっと自由にできることを知ったにすぎないのさ」

(セルバンテスドン・キホーテ全編(三)』)

 

何かと煙は高いところが好きと人は言うようだし父も母もルンババも僕に向かってそう言うのでどうやら僕は煙であるようだった。

(舞城王太郎『世界は密室でできている』)

 

「人の真価は、かれが死んだ時これから何を為そうとしていたかによって決まるのだ」

(荒俣宏『知識人99人の死に方』)


「この世の出来事は全部運命と意思の相互作用で生まれるんだって、知ってる?」

(舞城王太郎ディスコ探偵水曜日(上)』)


「全てのことに無駄はないんやけど、推理小説的事件じゃないと誰も意味を読み解こうとせんでそれに気づかれんのや。ほやけど探偵が集まる事件では違うやろ?意味を読み取って、世界の出来事の美しいほどの無駄の無さを知るんじゃ」

(舞城王太郎ディスコ探偵水曜日(中)』)

 

文脈の変化が大きいのにそこに自然と乗ってこれるのは、言葉や形として表に出てきている文脈以外の流れが見えない形で共有されているからだろう。僕らにとっては、それはいつも宇宙と星の話だ。

(舞城王太郎ディスコ探偵水曜日(下)』)


「どんな偉いもんになってもどんなたくさんお金儲けても、人間死んだら煙か土か食い物や。」

(舞城王太郎煙か土か食い物』)

桃源Q考察

【桃源Q】

  南極ゴジラが送る奇想天外ラブストーリー、『桃源Q』。その第1話、#1の舞台は「ゲームの世界」であった。中華風の世界観で描かれた世界観の中で薬屋を営む「町人A」というキャラクターは、ゲームプレイヤーが操る主人公である「ジャッキー・リー」に恋をしてしまう。町人Aはジャッキー・リーを「Q」と呼び、コントローラーを無視して迫るところで#1は終了している。そして続く#2、#3、#4、と一見するとそれぞれ独立したようなラブストーリーが展開されていく。但し#1以外、キャラクターの名前が「赤星」と「Q」に固定され、「二人が最終的に結ばれない」という結末まで一貫していた。

  その後、#7まで「赤星がQを好きになるが結ばれない」という形態を一貫させて桃源Qの配信は続いた。転機が訪れたのは実質上の最終回とされる#8である。登場人物である二人の男女は時空警察であり、なんとこれまでの#2〜#7のラブストーリーが全て悲恋で終わったのは彼らによる妨害工作のせいだったことが明かされる。

  二人は「赤星とQという人物が恋に落ちると世界が崩壊する」という世界のバグを修正するため様々な世界線の赤星とQを引き裂き続けた。しかし、物語終盤になり、全ての赤星とQを引き裂いたはずの2人は、自分たち自身もまた「赤星とQ」であったということに気づいてしまう。

  以上が#8の大枠のあらすじである。さてこの「桃源Q」を#8まで見届けた時、私にはいくつか疑問が浮かんだ。なぜ、#7まで続けていた「赤星」と「Q」という名前の一貫性を#8と#1では捨てていたのか。そしてなぜ#8の二人は自分たちが「赤星」と「Q」であることを思い出したのか。

 

【申し遅れたが】

  物語を謎を追うことが名探偵の使命、そしてこの物語で私が果たすことだ。申し遅れたが私は「阿賀野上ノ城」という者である。もちろんペンネームで本名ではない。一応「名探偵」ってことになってるが現実では辺ぴな田舎で塾講師なんぞをしているただの一般人だ。

  私はこのアカウントで「桃源Q」という物語に対する考察を日々垂れ流してきた。南極ゴジラの劇団員から推薦を受けて「考察パーソン」に指名されていたからである。正直、楽な仕事ではなかった。「名探偵」などという設定を自分で作ったところで自分の頭が考察を思いつくほど良くなるわけでもない。桃源Qは各所に考察できるポイントがあるものの、それらは巧妙に隠されておりなかなか見つけるのは困難であったし、事実ほとんど見つけられた気がしない。しかしここまでまあなんとか計20ほどの考察を投稿してきた。桃源Qは各話50回ずつはみたし、このアカウントでの投稿の8割は私のものである。

  ここまで私が忙しい社会人人生の合間をぬって続けてこれたのは、ひとえにこの仕事の報酬のためである。私はこの考察の仕事をボランティアで引き受けた訳ではない。考察を引き受ける代わりに南極ゴジラがむかし抽選でプレゼントしていた「サコッシュ」を手にすること、それがこの契約の条件であった。

  最初、この考察の誘いが来た時に私は断りを入れた。社会人というか新米塾講師は忙しいのだ。日々の教材研究の合間をぬって映像を見、考えをまとめ、時には調べ物をし、考察にして投稿するという作業を断続的に行うことはやや負担が大きいように感じた。

  しかし、その見返りとしてあの南極ゴジラサコッシュが貰えるのだとしたらやる価値はあるのかもしれないと感じて「サコッシュが期限内に貰えるのだとしたら引き受けたいが、難しいと思うので今回はお断りさせてほしい」と返した。サコッシュは限定品だったし、南ゴジの考察班なんて引き受けたがる人間はごまんといるだろうからまさかこんな条件をつける人間をわざわざとりたがるまいと思ったらまさかの「サコッシュと引き替えに頼む」という返事が返ってきた。何を考えているのかはわからないが、もらえるからにはやらせて貰おう。かくして、サコッシュを見返りとして私の考察班入りが決まったのである。さて、そのサコッシュであるが一体何がそんなに魅力的なのか。一つは仕事の即戦力になる点だ。ちょうど考察のオファーが来た日に上司から「夏期講習までにマーカーやタイマーなど授業で使えるポーチを用意しておけ」と言われた。サコッシュなどはこれにピッタリである。買う手間が省ける。さらに、あのサコッシュはユガミノーマル氏の顔面が張り付けられているというなんともキテレツな作りになっている。授業で使うものは生徒にも見られる。キテレツなデザインは生徒にもウケるだろうし、私自身としても好みのデザインだ。

   このような魅力あるサコッシュに出会える、というその一心でこれまで考察に励んできた。時には正解し、時には間違え、そして大抵は見当違いな深読みをしていた。

 そして桃源Qはいよいよ明日、真の最終回を迎える。ここまでやってきた考察のまとめとして、最期に名探偵らしく「桃源Q」の真相を披露したい。ただし、この推理は間違っている。ほぼ間違いなく間違えている。つまり今から行われるのはこじつけに屁理屈を重ねた「とんでも考察」である。だが、同時に物語をできるだけ正確に読み込むことを意識した結果の結論でもある。であるからして、今から記すことは 『桃源Q』という作品がもつ矛盾を指摘するものである可能性がある。そしてその矛盾を解決するために私がこねくり回した解釈なのだ。

これからそんな私、阿賀野上ノ城の最後のとんでも考察と、そこから導き出されるもう一つの物語について記していきたい。さて先程の謎に話を戻そう。

 

阿賀野上ノ城の推理】

  今から行う考察の土台となるのは「#8において赤星とQは世界のバグを修正しようと奔走していたが、二人の行動はまったくもって逆効果、むしろバグを拡張させた」という解釈である。

  二人はQと赤星が恋に落ちると世界にバグが発生し、最終的にパラレルワールドが崩壊することを防ぐために妨害工作を行っていた。

  この「恋=バグ」という構図は南極ゴジラが公式で何度も提示してきたものであり、#8はその体現であると言えるだろう。

 しかし、そもそも「恋」とは何なのだろうか。実はこの「恋」についても南極ゴジラは公式で定義づけを行っている。

https://m.youtube.com/watch?v=jfFqi-TrdOY

  この公式動画によると、「恋=お互いを思う気持ちの均衡がとれていない状態」と示されている。これを先ほどの等式と合わせると「バグ=お互いを思う気持ちの均衡がとれていない状態」ということになってしまう。

  この公式が示した等式に則ると、#8の二人が行った行動はむしろ「恋」を増幅させていると言わざるを得ない。妨害工作が行われていない#1を除くすべての回において、Qと赤星はほとんど初めから恋人として成立するような関係性であった。

  しかしそれが#8の二人の介入によって変わってしまい、結果として二人の間の好意の不均衡を生み出してしまっている

#2ではQの方から「赤星大好き」というセリフが語られているほどの関係性だったのにも関わらずTGCのオファーにより二人はひきさかれてしまう。

#3の二人はカエルの消失がなければ二人が恋仲になっていたことはほぼ確実だろう。

#4の二人は元から夫婦である。そこから赤星がパラレルワールドに向かってしまったことにより赤星のQが好きだという感情が大幅に強化されてしまった。

#5の赤星がラブセンサーを発明した動機は「もう会えない人にもう一度会いたいから」という強烈な恋情である。

#6の二人は初めから気持ちのズレはあったものの、それが表面化されたのは宇宙30年行などと言う極端な決定のせいだろう。

さて、ここまでが定義に従った結果の間違ったとんでも考察である。ここまでが前提で、ここからはこの発想を土台とした「桃源Q」という作品の再解釈を試みたい。

さて、まず「二人が引き裂かれる=バグ」を前提として桃源Q全体を見た時、そのバグとは正しい解釈と同様に「パラレルワールドの境目を溶かす」となる。赤星とQが結ばれなかった場合、ふたりの中の1部が世界線移動を行い、別の生物もしくは無生物に入り込む。

 つまり、「恋心」というものが魂のように存在し、その正体が「赤星」であり「Q」なのである。とある世界線で赤星とQが引き裂かれる。すると「恋=バグ」が起こる。結ばれるために「赤星」、そして「Q」の恋心の魂は身体を抜け出し、黄泉の国を経由して別の世界線に移動する。新たな世界線で魂としての「赤星」と「Q」はその世界線での同一人物、つまり「赤星」「Q」の器に入り込み、パラレルワールドを巡ってその世界線での「Q」に恋をしてバグを修正しようとする。これが私の導いた真相である。

  ただし、「パラレルワールドの上の同一人物に入り込む」と先程説明したがこれは因果関係が逆なのではないかと考えている。同一人物に入り込むのではなく、入り込んだ人物が同一人物となるのである。この点は抑えておきたい。

  この設定であれば、作品における謎でいくつか説明がつけられるものが出てくる。一つは記憶のリフレインである。本作では他の回の赤星もしくはQの記憶がリフレインされたり、「セミ」「カエル」など特定の単語が言葉が好んで使われるような描写がちょくちょくと登場している。これは、バグによって他の赤星またはQの記憶が入り込んでいくからであると考えれば辻褄が合う。

  この一連の流れの中で、恋愛感情の魂としての「赤星」と「Q」が引き継いだ以前の記憶、それこそがリフレインの正体なのである。だから#8の赤星はあれだけ急なリフレインを起こしたのである。少なくとも6回引き裂かれた「赤星」の無念があの時のメキシコマンには入り込んでいたのだから。

  ここからさらに考えを進めていくと、先程示した「なぜ#8と#1の登場人物の名前は赤星とQではないのか」という謎の解決が可能である。

まず、問いを修正する。「なぜ#8と#1の登場人物の名前は赤星とQではないのか」ではなく、「なぜ#2〜#7の人物は名前が赤星とQで固定されていたのか」に置き換えよう。

 そもそもの話であるが違う世界線での同一人物の名前が全て同じであることはありえないのではないか。赤星とQは日本人とは限らないし、人間じゃなくとも構わないのだから(理由は後述する)。だが、恋愛感情としての魂が無限に存在するパラレルワールドを移動する時、できるだけ元の世界と似た要素をもつ世界に移動する傾向があるのだとしたら、今回の#2〜#7で全ての登場人物の名前が同じであることの説明が着く。#8にて「これも名前に囚われた使命か」というセリフがあるように、つまり世界線を移動した魂ができるだけ元の世界線と似た魂を選ぶ時に要素となるのが「名前」なのである。だから#2〜#7の人物の名前が「赤星」と「Q」で固定されたのは、パラレルワールド上の二人の名前が同じ「赤星」と「Q」である同じ世界線が選ばれたからと考えることができる。さて、しかし無限に続くパラレルワールドといっても、「赤星」と「Q」という名前の二人が交わる世界線など数える程しかないだろうし、それ以外の要素で世界線を移動する可能性は否定できない。そこから、#8と#1の登場人物の名前が「赤星」と「Q」ではない理由が示される。今までの理論を土台とすると、#8はこのように再解釈されうる。

  「赤星とQが結ばれる=バグ」であると勘違いした時空警察の二人は世界線を移動し、6つもの「赤星」と「Q」を引き裂き、バグを拡張される。「名前」に囚われて世界線を移動していた魂は6回もの妨害を受けてその原因である「ラブリ」と「メキシコマン」に入り込み、これ以上の「バグ」の拡張を止めた。

  それではその後に#8の世界はどうなったのか。#1の結末に則れば「崩壊」したものとなるが、ではそもそも「崩壊」とはなんなのであろうか

#6によると、アース585である「ゲーム」はバグが見つかったためにメーカーによって回収されたらしい。回収されたということは、その後は恐らくその世界線を保存したゲームは解体されていると予想できる。#8における「崩壊」とはつまりこのゲームの解体を指すのではないか。とするならば、このアース585とされる世界線はその全てが崩壊した訳ではなくなる。#6において、とある美術教師がこのゲームを一つ隠し持っているらしく、少なくともその世界線だけは生き残っていると考えられるだろう。となれば、「Qと赤星が結ばれる」はイコールで「崩壊」ではなくなる。これは推測であるが、#1の物語はその崩壊を免れたゲーム機の中の物語ではないのか。#8の世界線で結ばれた二人の魂はその場に残るのかもしれないし、もしかしたらまた新たな世界線に移ってまた新たな「恋」をするのかもしれない。そして世界を跨ぐときには、#8の世界線と同じく、もはや「赤星」と「Q」という名前は必然性がなくなる。#1のキャラクター名は「ジャッキー・リー」と「町人A」である。しっかりと別の名前がある。しかし、#1を見ればわかるように2人は明らかに「赤星」と「Q」の記憶を持っている。だから、名前に必然性はないのだ。違う世界の同じ名前という共通項は世界線を移動する時の優先事項であって必須事項ではない。そうでなければ、名前が異なる#1の二人が赤星とQの記憶を持つ説明がつかない。

#8の二人は名前を消されており、元々の名前が「赤星」と「Q」というようにも考えられるが、この解釈であればもはやその辺はどちらでも構わなくなる。

 

【桃源Qが持つ普遍性と、そこから生まれるもう一つの物語】

 そして、「桃源Q」という物語が恋愛感情という魂の移動を描いたものであるとするからこそ、南極ゴジラが公式で「桃源Q#99プロジェクト」を募集することができる。赤星とQの魂が乗り移り続ける限り、物語は無限に量産されうるのだから、いくつのストーリーが紡がれようとこの理論は潰れない。また、プロジェクトでは、赤星とQは人間ですらなくても構わないとされている。ここから、二人の魂が乗り移る先は無生物でも構わないというふうに解釈ができる。どんなものに入り込もうとも、「赤星」の魂は「Q」の魂に恋をするのである。

  何より大切なのは、桃源Qという物語が名前にとらわれない「恋愛」というものを描いたのだとすれば、私たち一人一人が「赤星」であり「Q」であるとの可能性が目の前に広がることとなる点である。もし、焦がれるような、息がしにくくなって、食欲がなくなって、夜も眠れない。走り出したいようなそんな存在がいるのなら、私自身が「赤星」であるという可能性は捨てきれない。桃源Qとは、そのような普遍性を持った物語であるのである。

 そこまで考えた時に私は気づいた。それでは、私自身にはそのような焦がれるような相手がいるのかと。

 

いる。へんぴなこじつけを繰り返してきた私にはそんな存在がいる。それこそがあのサコッシュだ。 

  この2ヶ月、サコッシュの為に頑張ってきた。起きて、仕事をして、帰って、教材研究をして、そしてやっと桃源Qを見て、考えて、寝る。サコッシュという目標がなければとっくにこんなことは無意味だと放り投げていただろう。むしろ、サコッシュという存在が私を苦しめているのではないのかと考えたこともある。

  しかし、人間とは不思議なもので想いをこめればこめれるほど愛情とは深くなっていくものである。いつしか私は、「あのサコッシュでなければダメだ」と考えるようになった。この考察の末に、サコッシュに出会えるのならば、出会えるまで続けよう。そうでなければ、今の私の生活はなんの意味もなくなってしまう。あの『ドン・キホーテ』でドン・キホーテがまだ会えぬドルネシアを想って何度でも復活してきたように、『神様のボート』で「あの人」がいない草子との生活が一層「あの人」への想いを強くしてきたように、会えないからこそ焦がれる、想いをより一層強くするような「恋」が存在することを、私は知っている。もはや、換えが効くものではないのだ。私とサコッシュの間にはストーリーがあり、そのストーリーは「私」とあの「サコッシュ」でなければならない必然性を付与する。それはよく恋愛物で言われる「君でないとダメなんだ」と言うセリフのように。思えば、1年前に「インスタント桃源郷」の感想を綴った時から、私とサコッシュの恋は始まっていたのかもしれない

 だがしかし、こんな恋とも執着とも言えない物語が成就する可能性はゼロに近い。私はサコッシュを待ち続けた。そして、私が指定した日程にサコッシュが届けられることはなかった。私が考察を投稿する引き換えに夏期講習までにサコッシュが届けられるという約束は破られた。未だ制作すらされていないそうだ。

 それでも、私はサコッシュを待ち続ける。私は今もマーカーやタイマーなどの授業道具を何にも入れず持ち歩いている。私とサコッシュが出会う瞬間はこの世界線で存在するのだろうか。これは単なる南極ゴジラの怠惰の仕業なのか?それともどこかの時空から私を監視した存在による妨害工作なのか?そもそも、私は本当に「赤星」なのか?私の導きだした結論では、恋心という魂は名前に引き寄せられてその依り代を決定する傾向がある。私の苗字は「阿賀野」。「あかほし」と「あがの」という二つの名前を、魂は「似ている」と捉えるのだろうか。 サコッシュは別名を「qバッグ」というそうだ。

 

【結末】

  私は#8のメキシコマンとラブリの本名が「赤星」と「Q」じゃなければいいのに、と思っている。私の解釈であれば、例え二人の元の名前が「赤星」と「Q」でなくとも物語は成立する。私は生まれた時の名前で運命が決まっているなんて、信じたくない。私の名前は私が決める。例え本名ではなくても、私は「阿賀野上ノ城」だ。「私」の中にこれまで数々の難事件を解決してきた「阿賀野上ノ城」は確かに存在するのだ。

 そして、私の恋心は私が決める。どうやら公式によると「桃源Q」はハッピーエンドで終わるそうだ。恋焦がれ、呼吸ができなくなるような存在がいるのなら、それはきっと私にとっての「Q」だと信じる。そう信じることが私を「赤星」にさせる。私の導いた結末では、「桃源Q」はもはや名前に囚われる物語ではない。そして、二人の物語が「桃源Q」である限り、その結末はハッピーエンドを迎えるはずだ。

 それとも、私はやはり間違えているのか。運命はやはり「赤星」と「Q」という名前に囚われるのだろうか。私は「赤星」という名前ではない。その理由で私の恋が「桃源Q」ではないと言うならば、私はありったけのこじつけととんでも考察でまた証明してみせよう。「俺が赤星で、君がQなんだ」と。(阿賀野上ノ城)

 

 

 

 


#桃源Q考察

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こじつけて ひっくり返す 超考察

君と私の 運命すらも

南極ゴジラ「インスタント桃源郷」の感想みたいなやつ

感想を呟くと抽選でもらえるらしいサコッシュ。無性にほしくなったので、感想でもつらつらと書いていこうかと。盛大にネタバレしているので、未視聴の方はご注意を。まずは前日譚的なやつから。

 

【#0 おーい彗星、何億光年?】

声・ユガミノーマル

 

 

「もしかしてやけど、お父ちゃん。あんたなんか?あの星は」

  彗星が落ちて始まる「インスタント桃源郷」、その前日譚的なやつ。

星を見つけるという夢を叶えることが出来ずに逝ってしまった夫に代わり、望遠鏡で星を探し続ける妻の話。

ユガミノーマル氏の老人演技を僕は何度も拝見しているが、お婆さん役は初見(初聴?)。笑いすぎて痰が絡まるところが特におもろい。

 

 

 

ここから5月1日に配信開始された本編たち

 

 

 

【♯1 クロールひと掻き、息継ぎは苦手】

声・瀬安勇志

 

「誰かを好きになることは、息を止めて海をもぐることに似ている」

人の居なくなった東京で孤独を抱えた男が、マッチングアプリで知り合った女にのめり込んでいく。よくある話。でも今、この状況だからこそこの展開はリアリティを持って届く。画面の中の人達のとの会話や呟きやライブ配信に、以前よりも「繋がってる」感覚を持つのは僕だけじゃないはず。

途中の音楽がいい。入りのタイミングも好き。

ところで瀬安氏よ、「ケラケラした笑い方」のイントネーションが面白いぞ。

最後の締めのセリフが好みだった。

 

 

【♯2 回送電車は桃源郷ゆき】

声・古田絵夢

 

「私はそれを、いつまでもいつまでも見ているのでした。蛍の数を、ゆっくりと、数えながら」

歩く話。しかし映像は電車の車窓とはこれ如何に。

セリフ回しは小気味よく、古田絵夢さんの語りも軽やか。なんだけど、冷静に考えると展開は割と怖い。夜の山で一人、携帯の電源が切れて、明かりもない。闇の中で電車を追いかけて走った先は崖。蛍の群れは、女にとっての桃源郷。というかもはや唯一の救いでは。状況が壮絶すぎてラストシーンには美しさだけでなく恐ろしさも漂っているような気がするのは僕だけかしら。

 

 

【#3 好物は鮭。名前はまだ無い。】

声・こんにち博士

 

「この感覚は、何年ぶりだろうか。首元の鈴が、嬉しそうに音を立てた」

こんにち博士さんのこれでもかという巻き舌演技。ひねくれ猫感がでててめっちゃ好き。巻き舌出来ない僕としては羨ましい限り。

#2で女がみた電車はまさかの猫が動かしていたことですよね?!まさか運転手が人外だったとは……。

#2の女が崖から落ちた後に「腕と足がちゃんと四つあることを確認して」と言ったのに対して、電車から飛び出した猫は「ちゃんとしっぽも付いている」という言い回しをしてる。種の違いを感じてふふっときた。

野良猫なのに鈴をつけていて、人間に抱えられた感覚を「何年ぶりだろうか」と表現している。この猫、恐らく元は飼い猫だったのでは。

 

 

【♯4左手に瓜、右手に砲丸。】

声・瑠香

 

「飛んでけ。飛んでけ。どこまでも、私の中の葛藤も、もやもやも、何をかもを追い抜かして。彼方まで。」

#2の女の妹さんだ!とすぐわかる。

インターハイが中止になって、ほっとする陸上部員の話。「ああ〜終わった〜終わっちゃったぁ〜私の夏」ってセリフがあったけどあの言い方、あの軽さのリアリティが凄い。わかる。レギュラー争いってほんと、競技の楽しさを超えるほどしんどい時があるんだよ。

#3の猫を救ったのはこの作品の主人公でした。ということは猫を抱えて行ったのもこの人かな。

最後の歌はどこでダウンロードできますか?

 

 


【♯5馬鹿で、のろまで、夕日も見ないで】

声・和久井千尋

 

「自分が消えたあともこの世界は何事も起こらなかったように動くのだろうと思うと、堪らない気持ちになった」

和久井千尋さんの声の演技に脱帽。とても聞き取りやすかった。この作品は最初から最後まで不穏。ユーモアも控えめで、男の閉塞感がバンバン伝わってくる。

悪意ある書き込みを現実にするという神のような力を得ながら、男は誰にも自分を認識されていないという孤独から追い詰められていく。全作品のうち、この作品の主人公だけが他者との繋がりを感じるシーンがない(ラジオに送ったお便りは届くのだけれども、男が認識することはない)。

映像が好き。特に初めのネットサーフィンの様子。ああいうのいつまでも見てられる。

 

【♯6 退屈曜日はあくびも出ないし】

声・九条えり花

 

「私には、溢れるほどの可能性があるんです。まだ見た事もない世界があるんです」

ツボにハマってめちゃくちゃ好きだった。思考をそのまま文字にしたようなセリフ回し。と思ったら全部口に出してんのかい。

コンビニドミノの実況がいつの間にか自分語りになっていくところがアツい。こういうナレーター風自分語り好き。

映像のアニメ(?)の雰囲気も良き。だんだん賑やかになっていく。

雰囲気は好きなのだけれど、なかなか消化できなかった作品でもある。女がみた球体とは……? どうしてこのフリーターはこんなに球体に心動かされたんだ……?どうしても分からない、謎が多く残った作品だった。誰か教えてえらい人。もしくは作者さん。

そして、主人公は#1の姉だったんだね。また一つ繋がり発見。

 

【♯7 我慢はできるか、テレパシーさえ】

声・TGW-1996

 


「花子よ、どうかお願いだ。もっともっと大きくなって、富士山やエベレストよりも大きくなって私を踏み潰してくれないか」

日本の総理大臣と宇宙人の邂逅の話。物語の根本である「彗星」の正体に触れる重要な回。

世界を脅かす巨大ガニは総理が飼っていた蟹、花子の姿をしていた。総理としての責任感と、花子への愛情の間で揺れる総理は葛藤の末が描かれ、最終的に総理はカニの元へ向かう。というなんとも自分勝手なエモい話。

ただ、以前に#5を聞いてるので、こりゃあの主人公が勝手に作った設定の「結果」として現れた物語なんじゃないの?みたいなことを考えてどうも心はスッキリしない。

 

【♯8 光の速さでうなるタコ部屋】

声・井上耕輔

 

「じゃあ聴いてくれ。彗星」

20年間続いてきたラジオに初めて届いたお便りは、罵詈雑言に溢れたものだった。「このラジオを聴いている人は誰もいないでしょう」という悪態にDJはブチ切れながら「俺が聴いてんだよ!」  と答え、また歌を歌う。

#1、#5で触れられたラジオのDJによる最終回。#0を除くと本編の中で1番短い作品なのだが、井上耕輔さんの歌声と演じる男のブチ切れ、謎の名言など魅力は缶詰のごとく詰まっている。ただ、催涙弾一気飲みだけは僕の理解力を超えてしまって少々聴くに耐えない。

「優しかったおじいちゃんのこととか思い出すのが一番いいぜ」というセリフ。#0で死んじゃったおじいちゃん繋がりってのはさすがに深読みしすぎか……?

最後の流れに鳥肌が立つ。最終回でありながら、彗星に関してあまり触れてないなと考えていたら最後の最後に来る。この回が物語の幕引きとなるのも納得。めちゃくちゃかっこいい。

あと最後の歌のCDはどこで売ってますか?

 

 

 

【なんか本編全体のお話】

とりあえず、それぞれ物語にとっての「桃源郷」を考えてみる。

 

#1「マッチングアプリで知り合った女」

#2「蛍」

#3「電車の行先」

#4「砲丸投げ(またはその日々?)」

#5「パソコン?」

#6「謎の球体」

#7「花子」

#8「イナズマRadio」

 

まあ全部とは言わずとも半分は当たってると信じたい。

 

「インスタント桃源郷」というタイトル通り、9つの作品に通じてあるものは、各々にとっての「桃源郷」と、その「インスタント」さ。大なり小なり、日常に変化が生まれた世界でそれぞれにとっての「桃源郷」を見つけたり、溺れたりする。ただし、その桃源郷はとても脆かったり、独りよがりだったりする。

#1の男がのめり込んだ女の人は、顔も知らない画面の先の存在。#2の女は山奥で遭難したまま。#3の猫が目指した桃源郷には辿り着かず、#4にとっての青春は彗星のせいで終わってしまい、#5の男は自分のデマで作った世界の中でなお孤独を抱える。#6の女が見た球体は消えてしまう。#7で総理が迎えに行く花子はもう花子じゃなくて宇宙人だし#8のDJがつくりあげた番組は通りすがりのリスナーによって否定される。

それぞれにとっての桃源郷はとても弱い。各々にとっての「桃源郷」が現れると同時にその儚さ、危うさも映し出している点。これがこの作品最大の魅力ではないか。

 

そして個人的に全回を通して一番響いたのは、最終回の「俺が聴いてんだよ」というセリフ。一度桃源郷を否定された男はそれでも俺は好きなんだと言い切る。不確かな桃源郷を肯定してくれる言葉であり、だからこそ最終回としてあのお話があるのではないか。そんな風なメッセージ性を、自分勝手に感じた。

時間がある時にでも、僕にとっての桃源郷ってなにかなーとか、考えてみるのも悪くないかもね。

 

それと、どうやら続編が出るようなので、また特典があれば聴いてみようかしら。おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

炒飯 5日目

5月6日12時30分ごろ。虚無と炒飯に満ちたGWもいよいよ最終日。俺が対面したのは見慣れたキッチンではなく、あの日本一有名な中華料理チェーン店、王将である。餃子の王将 南海岸和田店。

 

最終日、最後に全力でもう一度炒飯を作ってみようかとも思ったが、やめた。何となく結末が想像できたからだ。昨日までの反省点を踏まえてもう一品作り、また何かしらの反省点を見つけて終わりである。たったの四日間ではあるが、それでも炒飯を作り続けてわかったことがある。炒飯の世界は果てしなく広い。今日一日少し頑張ったところで、真理にたどり着くことはないだろう。ならば、少しでも視野を広げてみることだ。日本で最もポピュラーな炒飯を食すことで理想の炒飯のイデアの一端をつかみ取り、自分が作り続けてきた炒飯の出来栄えをあらためて客観視することが出来るのではないか。

 

そんな思いではるばる15分ほど自転車をとばしてきた。お腹もいい具合に減っている。早速店に入り、カウンター席に座って焼き飯セットを注文する。ほどなくして、ここ最近嗅ぎなれた香りとともに俺の前に焼き飯、炒飯が姿をあらわした。

 

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テカりがすごい。何をどうしたらこんなにテカテカになるのかわからないが、とにかく表面が光っている。米粒は俺の炒飯に比べてかなり小さい。石川県産コシヒカリ以外の米なのか、はたまた何かしらの技術で普通のコメを縮めているのか。とにかく味だ。いただきます。レンゲで一掬いし、口に運ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここに来る前、たった四日間とはいえども炒飯を嗜んだ身としては、賛否を織り交ぜた食レポみたいなことが出来るのではないのだろうかと思っていた。しかし、この瞬間にそんな高尚な考えは吹き飛んだ。自作の炒飯を食べ続けていながら、いや、自作の炒飯を食べ続けたからこそ、料理の感想として最も頻出する、単純な二文字しか言えなくなった。

 

旨い。

 

旨すぎる。

 

テカテカのご飯は口に入れた瞬間にパラパラと広がっていき、心地よいコショウの刺激が口いっぱいに広がっていく。よく噛んだご飯は元の米粒が小さいのでスルっと喉を通り抜けていく。これが金をとるレベルというものか。ソムリエめいた緩やかな動きで味わうように食べることもなく、ひたすらアホみたいにかきこんで食べきった。セットでついてきた餃子とスープの味も格別だったことは追記するまでもないだろう。

 

 

 

餃子の王将南海岸和田店は我が母校、岸和田高校と非常に近い。勘定を済ませて店を出たその足で、俺は母校へと向かった。正確には、母校に前にそびえたつ岸和田城に。ベンチにでも座ってゆっくりとこの五日間を思い直す。

 

冷静に考えて、いや冷静に考えなくてもクソッタレなGWだった。大した予定もなく、ただいたずらに炒飯を作り続けただけだった。トライアルアンドエラーを積み重ね、なんとか作れるようになった炒飯への誇りも今しがた崩れた。

 

小さな話ではないか。ただ、炒飯を作って、気儘勝手に感想を得てまた炒飯を作る。これと言った不安定も、心揺さぶる人物との邂逅も、運命的な共通項も何もない。それなりにへこんだり喜んだりもしたが、別に取り立てて激しいものでもなかった。気の置けない仲間とドンチャンやったほうがよっぽど充実していただろう。

冷静に考えていうべきことと言えばこんな感じだろうか。すべては俺自身が悪いのだと。炒飯作りしかやることがなかったのではない。炒飯に逃げていたのだ。予定がなかったのではない。予定を作ろうとしなかったのだ。全力で楽しむべきここぞという時に、炒飯に逃げる。そういう斜に構えた態度が現状を引き起こしているといってもよいだろう。哀しいかな。こんなことに大学生になってから気づくとは、いやはやもう、なんというか、手遅れである。

 

このクソッタレな5日間をクソッタレだったからこそ、こうして文字に残した。俺はこれからも一人の休日を過ごし続けるだろう。そして、炒飯を作り続けるだろう。その時にこの文章がなにかの助けになれば、この五日間はきっと意味のあるものになるだろうから。

 

来年こそは、炒飯などとは無縁な日々を送ってみせるという気はない。むしろこう言いたい。来年こそは、炒飯すら楽しめるような人間になってみせると。そのために必要な知識と仲間を探しに行くと。ようは、捉え方一つだ。どこかの絵描きも言っていたではないか。

 

「この世界は全部思い込みだ。物語の世界だって、現実の世界だって、自分の手で自分の心に思い描くだけで、世界を操れる。世界の色を塗りかえれる。世界は今思っているよりも、もっとマシな世界に見える。世界を変える力、ホーホギョクはみんなの心に宿った」

 

 

我ながら5日間連続で炒飯を食べるとか正気の沙汰ではない。尋常じゃないぐらい飽きた。しばらく見たくもない。

 

 

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岸和田城はいつ見ても元気が出る。三年間見飽きることがなかっただけはある。

 

炒飯 4日目

炒飯以外何もない日々もここまで続くと精神がやられるようになってきている。昨晩は虚無感でなかなか寝付くことが出来ず、起きたのは11時を過ぎてからだった。

 

5月5日12時30分ごろ。眠い目をこすりながらチッキンの前に立つ。今日も今日とて炒飯である。母に「今日も炒飯作るから」と告げると、「今日も二人分作ってくれ」と言われた。正気かと思った。既に4日連続で自作の炒飯を食べ続けている俺がいうことでもないが、舌が狂ったのではないだろうか。

 

さて、昨日に引き続き課題は味付けの薄さだ。コショウ、しょうゆ、万能中華のもとの三種の神器を駆使しても理想の刺激を得られず、途方に暮れていた俺に救いの手を差し伸べてくれたのはまたしても母だった。とにもかくにもレシピといこう。

 

〇ご飯 300g

〇卵 三個

〇ニラ 適当

〇サラダ油 大さじ3杯

〇しょうゆ 適量

〇塩 小さじ1/3 杯

〇香味ペースト 適量

 

コショウと万能中華のもとという、刺激的な味付けを与えてくれる二つをレシピから削除し、代わりに現れたのがクックドゥの「香味ペースト」だ。

 

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イケメンアイドルの山田涼介君がCMで宣伝していることで有名な代物。昨晩母が買ってきてくれた。キャッチコピーは「味付けこれ一本!」である。母曰はく、俺が求めている刺激はこいつで達成されうるのではないのかとのことだ。試してみる価値はあるだろう。キャッチコピーを信用して、これ一本で勝負してみようではないか。それにしても「万能中華のもと」の三日後にはさらなる強力な「香味ペースト」が現れる、ドラゴンボール並みのパワーバランスインフレーションである。

 

同じことを繰り返す必要はないだろう。途中まで昨日と全く同じ工程を踏み、最大火力を以てしてたまごご飯を炒め続けること10分。いよいよ秘密兵器の力を試す時がやってきた。水気を失い、焦げ目がつき始めている卵ご飯に香味ペーストを加える。約18センチメートルほど入れ、よくかき混ぜる。これまでにないほど強い香りが立ち上った。思わずむせてしまうほどだ。なるほどこれは強い。炒飯一つとっても広い世界があるものだなどと感心する間もなく、スプーンで味見をする。フライパンから出したてのご飯はとても熱い。しかしその熱気に負けないほどの濃さで辛みが舌を刺激してくる。申し分ない。さすが山田君が宣伝しているだけはある。これからクックドゥHey! Say! JUMPは贔屓にするとしよう。とどめにニラをふりかけ、しょうゆを一周だけさせてよくかき混ぜて一丁上がりだ。

 

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見た目はびっくりするほど昨日と変わらない。しかし、ご飯の味は各段に成長を遂げていた。旨い。4日連続の炒飯で辟易している俺の舌でもわかるほどにはいい味が出ている。母も(いつものことではあるが)「美味しい」とご満悦の様子だった。全体としてはまた一ついいものを作ることが出来たのではないのだろうか。

 

ただ、今日のご飯は二日目や三日目に比べてすこしパラパラぐあいが弱い。時に粒同士がくっつきあったまま焼き目がついているものある。原因としては卵とご飯を十分に混ぜ合わせていなかったことがあげられるだろう。味の濃さに気をとられ、足元をすくわれたわけだ。

 

今更思い直したが、もっと具を詰めるべきではなかったのだろうか。肉、ニンジン、グリーンピース、いくらでも追加できたが、なぜか具はネギかニラの一点張りだった。やはり理想の炒飯への道は遠い。課題はいくらでも残っている。

 

だが、炒飯と虚無に満ちていたGWも残すところあと一日である。俺は明日の最終日、一体何をすべきなのか。香味ペーストに浸食されながらもわずかな旨みを残していたご飯を噛み締めながら俺は考えた。