阿賀野上ノ城の事件簿

昔は名探偵でした。

炒飯 1日目

5月2日18時ごろ。約9か月ぶりにキッチンの前に立った。

 

炒飯を作るにあたり、前もって用意したレシピは以下の通りだ。

 

〇ご飯 400g

〇卵 二個

〇刻みねぎ 適当

〇サラダ油 大さじ3杯

〇しょうゆ 小さじ2杯

〇A(塩 小さじ1/3、こしょう 少々)

 

まあ、誰でも知っている某料理サイトの基本レシピそのままである。IHの加熱メニューでフライパンを温めておく。十分な温度を持ったところでサラダ油を投入。次いで、あらかじめといておいた卵を投入。

 

早速失敗した。卵が半熟状になったところでご飯を投入する予定であったが、加熱温度が高すぎたため、フライパンの中にぶち込まれた卵は瞬時に固形化してしまった。無念。これはこれでおいしそうな卵焼きの切れ端みたいになった卵をフライパンから取り出し、初めからやり直しである。

 

油をひきなおし、加熱温度を先ほどの三分の一以下にして、新たにといておいた卵を投入。今度こそ卵はゆっくりと凝固していく。固まりきらないうちに炒飯のメインたる白米を豪快に投入する。この白米には、料理人たるこの俺のささやかな工夫が施されている。炊飯ジャーのなかで保温されていた白米お茶碗四杯分をザルの中にぶち込み、ザルごと水につけておいたのである。つまり、今しがた投入されたばかりの白米はびちょびちょだ。

 

無論、行動には理屈がある。

炒飯と言えばパラパラ、パラパラと言えば炒飯だ。お茶碗に行儀よくよそわれたジャパニーズライスのモチモチ触感など不要。協調性なく米粒は反発しあい、その一粒一粒が調味料によってこれでもかと無遠慮に浸食される、一口食べたら陶酔してしまいそうな刺激が舌を攻撃するテロルでアナーキーなパラパラ炒飯こそ至高たりえるのだ、というのは俺の自論である。だが、理想のパラパラは普通のレシピ通りに作っていては得られない。日本で販売されている大抵の白米は高弾力性、癒着性を備えている。ゆえに、米粒同士はくっつきやすい。パラパラを至高とする炒飯には向かないのだ。

 

そんなわけで、理想の炒飯をつくるためには、通常の白米に何かしらの工夫を凝らす必要がある。そこで為されるのが「水分離戦法」である。水につけられた白米は一時的に粒単位で分離する。米粒が離れ離れになっている間にフライパンの圧倒的火力で水分を弾き飛ばし、くっつかないようにする。こうすることにより、理想の炒飯に不可欠なパラパラご飯が得られるという道理である。関大生の肩書に恥じぬ、華麗な頭脳テクによる白米レイプ。我が国の白米のモチモチ触感は素晴らしい。だが、時にはその品の良い美しさ、弾力性が疎ましく思えてしまう時だってあるだろう。そう、例えば、GWにも関わらず何の予定もないため、やけを起こしてニヒリズムの任せるまま炒飯を作る愚かな文系大学生にとっては。

 

俺は覚えている。ザルを両手で持ち、フライパンにぶち込む直前のその刹那、理想の炒飯への道がはっきりと見えた。俺は、笑った。さあ、行け、白米たちよ。卵と絡まれ。己の中に潜む不要な水など捨ててしまえ。そして誰とも交じり合うことのない、孤高なる理想となれ。俺とお前で起こしてやろうぜ。フライパンの中の革命を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10分後、絶望した。

フライパンの中の卵入りご飯はパラパラなどとは程遠い、いやむしろ真逆の、自己修復機能に特化した塊となっていた。

モチモチ。

 

餅。

 

餅だ、これは。

 

 

俺は思い出した。卵の急激な凝固を防ぐために加熱温度を低く設定していたことを。投入された米粒はフライパンの熱で中途半端に水分を失い、そのまま乾ききる前に適度な癒着性を獲得した。結果、周りの米粒たちと合体し始めた。結果、餅が生成されてしまった。結果、失敗した。

そもそも、茶碗四杯分の米粒に含まれる水分を瞬時にとばすなど、普通のフライパンや文系大学生のなせる業ではない。少し考えればわかることだ。阿呆はここにいた。何が料理人たる俺の工夫だ。何が関大生の肩書に恥じぬ頭脳だ。10分前にやけながらご飯を水につけていた自分を中華鍋でぶん殴ってやりたい。

理想の炒飯への道はまだ遠く、光はいまだ見えない。戦いは墓穴ディギングいうなんとも情けない結末で幕を閉じたのである。

 

その日の炒飯作りの工程をこれ以上述懐することは気の進む事ではない。

 

 

 

レシピ通り、炒飯もとい炒飯餅に刻みネギ、塩、コショウ、しょうゆを適量投入し、餅は食欲そそる香りを放ち始めた。相変わらず水っぽいが、まあ食えない代物ではないだろう。ふと思い、最初に固まり過ぎた卵も混ぜてみた。うん、悪くない。

 

あとは時間の許す限り水をとばし、盛り付けるだけだというタイミングで母が帰ってきた。母は僕の餅に対してなにも非難することなく、ただ「晩御飯作ってくれてありがとう」とだけ言ってくれた。そしてスプーン一杯だけ味見をすると、冷蔵庫から「万能中華のもと」なるなにやらチートじみた名前の粉を餅にふりかけると自室に引っ込んでしまった。俺は万能中華のもとが十分に餅全体になじんだのを確認して盛り付けに入った。大きめの茶碗の中に入るだけ、餅を詰め込み、広めの皿をかぶせてひっくり返す。まあ、こんな感じだ。

 

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俺に気を遣ってくれたのか家族の評判はそこまで悪くもなかった。俺自身としても、別にまずいわけではないとは思う。しかし、これは断じて炒飯ではない。俺が作りたかったのはこんなモチモチのものじゃない。ついでに言うと、味もかなり薄い。

 

炒飯を食べ終わったあと、何を思ったのか母は追加で肉うどんをつくってくれた。どういう意図があったのかは分からないが、何故か悲しくなった。母を楽にするために始めたことではなかったのか。悔し涙と一緒にかみしめた餅は、しょっぱかった。みたいなことはなく、比較的真顔で餅と母特製の肉うどんを平らげた。

 

 

 

片づけを終え、自室に引っ込んだ後、様々な思惑が襲ってきた。上手くいかなかったことによる悔しさ、それに反してそれでも一品作り上げて家族にふるまえた達成感、何の予定もない明日以降に対する漠然とした不安、そして虚無感、その他もろもろ。それらは一つの決意に収束した。明日も、作ろう。理想の炒飯がどれほどの困難なのか知ったことではないが、それが俺のやるべきことな気がした。つまるところ、ひとつ決意した。ドラマチックに表現するならこんな感じか。そういえばついこの前までよく似たセリフを言わせていた気がする。

 

「俺は作ってみせる。最高の炒飯を!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうせ他にやることねえし。